2009年5月27日水曜日

曖昧さ

さして友人・知人が多いわけではないので人付き合いは人並み以下かもしれない。それでも時折、経済について聞かれることがある。わたしの意見を聞きたいようなのだけれど、複雑な経済の動きについてさほど知っているわけでもなく、じぶんの考えといっても不確かなものだ。元にしている情報にしてからが自分で直接確かめたり、そうできるたぐいのものではない。

しかし、はっきりしたことを聞きたいようなのだ。たしかに、曖昧な状態に中ぶらりんというのはイヤなことには違いない。あるいは確たるなにか、確信を得たいと思っているのかもしれない。じぶんなりの納得を得るために情報集めに一生懸命なのかもしれない。たしかに納得すれば安心は得られるのかもしれないが、それはまた新たな疑念を呼ぶだろうと私などは思ってしまう。

別のタイプの方々とお話するときもある。曖昧さはひとつもないタイプである。確たる信念をお持ちで、私がどうやら似たような見解をもっているらしいと踏んで、これは知っているか、だからかくかくしかじかですよね、準備はどうなっていますかとくる。曖昧さはひとつもない。信心や信念のごときものがみえる。たとえそうした方々と似た解釈を現実についてする場合でさえ、私の場合は、まあそんなところだろうという程度のもので、不確かさが混じり込んでいる。曖昧さのなかに漂っている。それがそうした方々には気になるらしく、こうした事実があるがご存じのはずとくる。それは周知のことでしょうと応える。だからといってほんとにそうかといえば、必ずしもそうとは限らない。

確たる信念を得るために不確かさのなかに漂っている前者のような方々のほうが私には親しみが感じられる。それは私たちの状況だから。後者になってしまって、「真実」によって自己を「解放」したかのごとき方々はなにかじぶんとは違うなと感じる。

もちろん、後者はその「真実」を墨守することで間違えることをものともしない勇気ある人々かもしれない。しかし私には、ケインズのこんな言葉がアタマをよぎるのだ。「はっきり間違っているより曖昧に正しいほうがまし」と。

ある事につき、不確かにしか正しいとはいえないが、別の事につき、それが見当違いであることははっきりわかるという程度の、精神の状態でホバリングしているのは疲れることではあるが、好みの姿勢である。

1 件のコメント:

Jota_Shimazaki さんのコメント...

私もしょっちゅうA1Mさんにコメントして意見を引き出そうとする一人かも知れませんので、余りしつこくならないように気をつけます。 ただ、一般人が、A1Mさんのように、文献やネット情報を渉猟し、長くその分野について考えて来られた方に意見を聞きたくなるのは、ある程度仕方ないことなのではないかと。 特に今のように不安定で不確実な世の中では、少しでも頼りになるものを欲する気持ちは(私のような者には)良く判ります。