2009年5月13日水曜日

欲あるいは欲心

道楽の対象である、近世の話は別のブログに書いているのでそちらに置こうかと思ったが、まあケーザイに関係あることはこちらということで。

生きていれば人間だから欲がある。欲を満たすにはカネということで、もっとカネが欲しいとなる。

勢いうまい手はないか、カネにカネを稼がせれば(財テク[なんだかなつかしい言葉だ(^_^)]、カネがカネを生み金持ちはどんどん金持ちになるなんてときの話だった。)、それに越したことはない。株とかFXとか、最近は思惑(投機)を手がける人も目につく。しかしうまく行っている人は少ないだろう。逆に、苦労して貯めた金をなくすはめに陥った人もいると思う。

どうも人間、欲には弱いようだ。


そうした人間への戒めとして、江戸時代の相場の極意書のひとつ、見幾館主人著、『糴糶八木竜の巻』(てきちょう はちぼく りゅうのまき)の一文を読んだ。近代デジタルライブラリーさんのおかげで、ネットでこうしたすごい本が読めるのである(よい時代になった)。URLは下記。

http://bit.ly/nTYrT

注目したのはこの条り。


「何故に損(ふみ)人をふきや」と。

どうして相場で損をする人がおおいのかと問うわけ。

踏むとは相場などでソンすることなので、損をするひとはふみびとか(^_^)。

「云(いわく)其心中(むねのうち)たとえば一両の元手にて百両迄にせんと思ひ。欲深にしてするが故に少々すくいためても。此めくさりがね何のたしにも・・・ならん杯と。おもひとどまる所をしらずして。なおなお気たかぶりになつて・・・一文なしに成て・・・やむものなり」
と。

欲が深いと少々のカネが手には入っても、なんのたしにもならんと思い、もっと欲しくなるわけ。「気たかぶりになって」とはよく言ったなあ。

そうして最後は文無しに。



ジョニー・カールソンという人は、

おカネがあなたに与えてくれるのはおカネについて心配しなくていいという自由だけだ。


といったが、実はそうではないようだ。

人間ってのはカネをもつほどに、「気たかぶり」になる。カネがあるほどに、その程度ではと、「めぐさりがね」に思えてくるし、いっそう余計にカネに気をつかうようになる。心配しなくてよくなるどころか、余計に心配となるわけだ。そうして一文無しになるまで突き進む。

そうしておカネからの自由が手に入るのか。

しかしそれは生活の不自由を手にしたことでもある。

ほどほどがいちばんだが、いちばん難しいようだ。

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