2009年8月3日月曜日

健全な資本主義

よく経済に関して話し相手になることを請われる。なかには格差社会に憂慮を示される方々も多い。話していて、ふと気づくのはそうした方々がみな、所得においても資産でみても確実に私よりは上の所得や資産をもつ階層だということである。なんだか話していて私のような貧者と話してもメリットはなかろうと思いたくなってしまうが、所得や資産をお持ちの上、さらに社会を憂慮しているという心持ちの高揚感も得たいらしい。それはそれで結構なことなので、財産はみな社会に寄付でもなされば、さぞや気持ちがよろしかろうといいたくなるが、いわずに呑み込んでいる。

こんな時代だから健全な資本主義ということを考える。いったいなにがそうなのかと。答えは簡単にみえる。その国の産出高に限界を画するものが労働供給と資本設備であるように支出が迅速に行われていればよい。つまり労働は100%雇用されていてみなが働いている、資本設備もフル稼働。

もし世の中が私のような低所得集団だけでできていて、社会の所得がほぼそうした集団のものであれば、資本主義は放っておいても健全だろう。なぜなら、貧乏人の自然な欲求を満たすに足る水準を所得はいつも下回っているだろうからだ。私の場合は支出はいつも迅速だ。そうして手持ちの購買力はすぐに尽きてしまう。しかし欲求は満たされない:-(

だがお話相手の方々は所得や資産でみて上層の集団に属していらっしゃる。支出をしない自由を満喫なさっている階層だ。それで経済の話題もとりあげたいらしい。彼らは外に向けたい博愛家の顔とは違った顔の色をする。投資向けに支出をしたいという話なのだ。彼らの購買力は投資に向けられるか、いま投資しても収益が見込めないときは、まったく投資しないか自由である。彼らには支出を待ち、先に延ばす自由があるらしい。彼らの手元にあるカネがそうした自由を提供している。

格差があるということは、考えてみれば資本主義が健全さを失いはじめることにみえてしまう。なんだか皮肉な現実ということか。一方に潤沢な資産を積み上げた人々を作るほど資本主義は老成し、不健全なものになったということか・・・

0 件のコメント: