2009年8月31日月曜日

ダグラス・メモ4

信用マネーを考えると、当然にもその生産コストは小さい。ましてや限界コストはゼロである。他方で信用マネーはもともと利子を生む債務である。それが意味するのは、生産のコストではないが、こうしたマネーが存在することに関連したコストがゼロではないということだ。そのコストは共同社会の貨幣総量のうち利子コストが発生する部分に比例しており、もちろん貨幣のタームで表現されるものだ。利子率と、利子の発生する貨幣と発生しない貨幣の比率、及び貨幣の回転頻度が一定である場合、貨幣のタームで表した利子コストは貨幣回転率に比例する。それゆえ、実質回転率が人間の欲求をよりいっそう満たすことに対応しているほどに大きい場合、その場合に限って、この実質回転率が関心を持たれることになる。つまり貨幣の実質的回転率の大きさが人間欲求をよりいっそう満たすかどうか、である。明らかに最近のマネーゲームにおいて顕著であるが、そこでは人間欲求との対応は失われているか、第一義性を喪失している。しかし対応関係が維持されているような状況下で、貨幣回転率が低いようであれば引き上げられるであろうが、ただ無意味なインフレを意味する水準にまで高騰する事は回避されるべきだろう。とにかく、共同社会にとって特別な関心を寄せるべきは貨幣量ではないということである。貨幣の回転率、もちろんその実質的な回転率なのであるが。しかしダグラスにあってはこうした視点は欠けているようにみえる。このことは社会にとっても個人にとっても当てはまる。欲求がみたされる水準を決めているのは貨幣量ではないのだ。貨幣の実質回転率をみなければならない。ダグラス主義における貨幣の外部注入による貨幣量の増加は解決策として十分なものとはいえない。金箱のなかのカネがいくらあるかよりもそれがどれくらいの頻度で使用されるかが問題である。金箱にたとえ半分しかカネがなくてもその貨幣としての効率が二倍であればよい。

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